“志”について、池田先生は、「心を一つのものごとに向かわせることを意味しています。大事なのは、わが一念が、どこを向いているかです。『何のため』という根本目標を定めることです。私たちで言えば、自身の一念を御本尊に、広宣流布に向けていくことです」と教えています。
世界広布のために自分にできることを見つけ、一つ一つ挑んでいく。その挑戦の一歩は、自分の日常生活においても、見える世界を少しずつ広げていくことでしょう。
人類の幸福と平和を願う純真な“志”が、自身の境涯を大きく開いていくのです。
伸一は、さらに御書の別のページを開いた。弘安3年(1280年)の12月27日、南条時光に与えられた「上野殿御返事」(全1574・新1918)であった。
当時、時光は、熱原の法難によって、夫役の人手などを過重に負担させられ、経済的に苦境に立たされていた。自分が乗る馬も、妻子が着るべき着物もないなかで、身延で冬を過ごされる大聖人の身の上を案じて、鵞目(銭)一貫文を供養したことに対する御手紙である。
諸御抄に記された時光の供養の品々を見ると、多くは食べ物である。しかし、この時、銭を送っているのは、大聖人に供養する物が、もはや、何もなくなってしまったからではないだろうか。おそらく、いざという時のために取っておいた銭を、供養したのであろう。
大聖人は、その真心を尊び、絶讃されたのである。
時光の身なりは貧しくとも、その心は気高く、金色の光を放っている。供養の根本は、どこまでも信心の志にある。(中略)
伸一は、続いて「衆生身心御書」を拝した。
その後段で、彼の視線は止まった。
そして、何度もそこを読み返した。彼は、深い意味を感じた。
「……設いこうをいたせども・まことならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず、設い心をろかに・すこしきの物なれども・まことの人に供養すれば・こう大なり、何に況や心ざしありて、まことの法を供養せん人人をや」(全1595・新2047)
〈たとえ、功徳善根を積んでも、真実でない人を供養すれば、大悪とはなっても善とはならない。たとえ、信心が薄く、少しの物の供養であっても、真実の人に供養すれば、功徳は大きい。まして厚い志をもって、真実の法を供養する人びとの功徳は、どれほど大きいか計り知れない〉
一言に供養といっても、何に対して供養するかによって、善にもなれば、悪にもなってしまうとの御指南である。伸一は、「衆生身心御書」のこの御文に基づいて、学会の供養、財務について考えていった。
学会が推進する供養、財務は、すべて日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のためのものである。大聖人の立てられた大願を成就するために行う供養は、御本仏への供養に通じよう。ならば、これに勝る供養もなければ、大善もない。ゆえに、これに勝る大功徳もないはずである。そう思うと、伸一自身、一人の学会員として、その機会に巡り合えたことに、無量の福運と喜びを感じるのであった。
コメント